辺境(Hinterlands)

 ヒロがスイッチを入れたとき、おれはパリの夢を見ていた。濡れて黒ずんだ、冬の街の夢。
苦痛が振動しながら頭蓋骨の壁面を離れ、青いネオンの壁になって目の奥で爆発した。おれは悲鳴をあげ、海老のように体を曲げてメッシュのハンモックから起き上がった。

悲鳴は毎度のこと。かならずそうするきまりだ。フィードバックが頭蓋の中を暴れまわった。苦痛のスイッチは移植された骨伝導通話器〈ボーンフォン〉の補助回路で、痛覚中枢に直結している。代理〈サロゲート〉稼業の鎮痛剤の霧を追い払うには絶好の道具だ。

二秒ばかりで自分の人生が一つにまとまり、霧のむこうに大きく浮かびあがるのは、伝記の氷山群ーーおれが何者で、どこにいて、そこで何をやっていて、だれがおれを叩き起こしたのかだ。

 ヒロの声がボーンフォン経由で頭のなかにとびこんできた。「やめろトビー。そんな悲鳴を出されたら、こっちの耳がどうなると思うんだ」
「ナガシマ博士、おれがどれだけそのお耳を気にかけてると思うのか、教えてやろうかーー」
「愛の告白はあとにしてくれ、坊や。それよりお仕事だ。ところでこいつはなんだ?きみのこめかみから出てる五十ミリボルトの棘波は。察するに鎮痛剤〈ダウナー〉だけじゃ淋しいってんで、何か色付けしたんじゃないのか」
「あんたの脳波のほうがおかしいぜヒロ、ついにとち狂ったな。おれはただ眠いだけ……」ハンモックの中にもぐりこんで闇の毛布をひっかぶろうとするが、やつの声はなくならない。
「悪いが今日はおたくの出番だよ。一時間前に船がもどってきた。エアロック班が今、現場で作業中だ。反動エンジンを切断している。船体がドアをくぐれるようにな」
「だれだい?」
「レニ・ホフマンスタール。物理学者。国籍はドイツ連邦共和国」ヒロはおれのうめきがおさまるまで待った。「確認済みの肉弾〈ミートショット〉だ」

 おれたちがここで作り上げた美しい日常用語の数々。ヒロの言う意味はこうだーー医学遠隔測定〈テレメトリー〉活動中の帰還船。その中身は乗員一名。体温あり。精神状態は不明。
おれは目をつむり、闇の中でゆれ続ける。
「どうやらきみが彼女のサロゲートに当たりついたらしいぜ、トビー。彼女の特徴像〈プロファイル〉はテイラーと一致しているんだが、あいにくやっこさん、休養中でね」
 テイラーの“休養”がどんなものかは知っていた。農業円筒区〈キャニスター〉で抗鬱剤〈アミトリプチリン〉漬けにされ、エアロビクスにはげみながら、何回目かの鬱病の再発と闘っている。サロゲートの職業病の一つだ。
テイラーとおれは折り合いが悪い。おかしなことに性心理プロファイルの似かよった相手ほど、総じて相性が悪いようだ。